妹
2022 / 10 / 06 ( Thu ) 妹
私には、4歳下にあや子と言う名の妹がいます。92歳になります。 現在は、歩行が出来ず、認知症も進み、一人で、身の回りの事が出来ません、息子夫婦の介護を受けて毎日の生活を過ごしています。 私は、96歳の今になって、自分の今までの生きざまを振り返って、妹には、良い兄とは言えなかったと悔やんでいます。 妹は、兄の私と一緒に居るのを喜び、懐いていました。 そんな妹を、私は兄として、可愛がり良い兄だったかと、今になって、 その頃を振り返って考えると、悔やまれて、御免ね、御免な、と詫びています。 私たち兄妹は、生活が、楽ではない家庭に育ちました。 二人共、小学校を卒業すると、すぐに働き家計を助けました。 若い女の子です、流行りの服を買うのを、遊ぶのも我慢して、家の生活第一に考え、不平不満を、言わず、よく働きました。 私は、自分本位で素直でない、ひねくれた、良いとは言えない性格で、親不孝 者でした。 第二次世界大戦中の、昭和18年に、新聞や映画を見て、少年兵に憧れ、親の心や家庭の事情も考えないで、少年野砲兵に志願しました。17歳でした。 今になって考えると、何と思慮のない無謀な、決心、生き方をしたものかと、恐ろしく、悔やまれます。 そんな不心得者の私を、戦時中の生活環境の良くない時期に、千葉の野戦砲兵学校まで、面会に両親と、まだ小学生だった妹は来てくれました。 食糧事情の悪い時世に、腹を空かせているだろうと、ぼた餅を食べさせてくれたのを思い出します。 旅慣れない両親と妹が、交通手段や交通状況の良くない時に、旅費を工面して、当時は、大変に遠かった、千葉県の四街道まで、長い時間をかけて苦労、難儀をして、夜行列車で面会に来てくれた事を考えると、切なくなります。 昭和20年3月に、少年野戦砲兵学校を卒業し、満州の牡丹江の近くの部隊に赴任しました。 私は運良く、昭和20年6月に、本土決戦のために博多湾の守備、防衛の任務に就くために、日本に帰り、ソ連に、捕虜され抑留される難を逃れる事が出来ました。 日本に赴任して博多湾を望む山に、敵の襲来に備える為に観測所を設ける任務に就きました。 観測所の完成を待つこと無く2ヶ月後に終戦になり、1ヶ月後の9月に故郷の家に帰還しました。 戦死しないで無事帰還し、妹や両親、家族と再会が出来た事を、感謝しています。 幸運を感謝しなければと心に念じて居ます。 終戦直後の生活環境の苦しい時期でした、急いで9月中に近くの電機会社に就職しました。 戦後の混乱している時期で、会社でも、左翼的な労働組合の長期なストライキ闘争が行われ、休業、アルバイトなどで、生活をしていましが、ストライキが大変に長引いたので、電機会社を辞めて、家庭の事情も有り、近くの繊維会社に就職し、35年間、定年退職迄働きました。 昭和44年から昭和48年迄、海外の合弁会社に出向し、家族3人で中南米の国コスタリカで4年弱、日本を離れて生活をしました。 私の居ない日本の家庭を、妹は、守ってくれました。 海外に居て日本の事柄に対応が出来ない私は、妹を頼りに、無理な、色々な厄介な事柄の手続きや交渉を頼み、対応してもらいました。 昭和45年(1970年)の頃で、国際電話の知識もなく、慣れない事で、何かと苦労が多かったと思います。 何かと、当たり前の様に、何でも、妹に頼んで、してもらった事を、振り返って考え、そんな妹に対し、私は、兄として、きちっと接して、言葉にして、私の気持ちを伝えていただろうかと反省しています。 今になって、私の気持ち心情を伝えたいこと思いますが、妹の健康状態を考えますと、その術が無く、反省、後悔ばかりしています。 認知症が、少し進んだ時期に、一度、見舞に行きました。 久しぶりに、妹の顔、姿を見たら、ひとりでに、妹の、手を握り、{兄貴だ}分かると尋ねました。 弱く、小さな声で、{岩男さんだねー}と言葉が返ってきました。 家庭の事情で、その後は見舞いも行けませんでした。 今の、妹の健康状態は、認知症が進んで、一番身近な、日常に接している息子夫婦が、辛うじて分かる程で、話す事も、何も伝える事も、出来なくなりました。 妹に、私の気持ちを、伝えたいと思いますが、もうその術がありません。 高齢になり、生活に、時間、や行動が、多少、自由な時期が有ったのに、何故、妹と一緒に語り過ごす,機会や場所を、持たなかったのかと悔み後悔をしています。 口にはしませんが、あや子は、私の可愛い妹です。 優しい言葉や、温かい言葉を掛けた事が有りません、妹は、苦しい家庭の為に一番、尽くして呉れました。 兄の私を、慕い、大切にし、私を助け支えて呉れました。 妹に、苦労を掛けたね。何時も兄の私の事を良かれと願って支えて呉れて有難う、と気持ちを伝える事が出来ません。 今になって、優しく温かい兄でなかったことを。御免ね、と、詫びる事もできなくなったと、思いますと、ジーンと涙がにじみます。 私は、フクちゃんに先立たれ一人暮らしの生活ですが、何かと、皆さんのお世話になりながら認知症にもならず、耳は遠く成りましたが、毎日を元気に過ごしています。感謝しなければと思います。 然し、フクちゃんに先立たれ、妹は長い看護生活を考えると、{私だけが・・・}と、思うと、申し訳ない様に思います。 私はこの先、どの様な生き方が出来るのか分かりませんが、天命に従って、素直に、正しく生きる事に努めたいと思っています。 穏やかに、安らかに、日々が過ごせるようにと願っています。 スポンサーサイト
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桃とさくらんぼ
2022 / 09 / 14 ( Wed ) 桃とさくらんぼ
今年は桃をよく食べました。 桃の初物から終わりまで、毎週、生協に注文して、信州の桃を食べました。 フクちゃんは、信州の桃の白い花の話や、皮を剝いて食べる ときの心得を話してくれました。 フクちゃんは、さくらんぼが好きで、値段のあまり高くない、アメリカ産のさくらんぼを、食べていました。 私は、フクちゃんが好きだった、さくらんぼの「佐藤錦」を、注文し、食べることにしました。 フクちゃんと一緒に食べる事は出来ませんが、仏壇のフクちゃんに供え、娘や弟にも、分けて食べました。 梨、梨は、好んで食べませんが、車を運転して居たころに、近くの梨園の街道で売っていた梨を、フクちゃんと一緒に買いに行ったのを思い出します。 |
フクちゃんの庭
2022 / 05 / 01 ( Sun ) |
フクちゃんの三回忌
2022 / 02 / 28 ( Mon ) フクちゃんの三回忌
私は、子供の頃から、毎日、朝夕に、神様、仏様に手を合わせています。 フクちゃんが亡くなってからは、一日もかこ欠かさずに、朝夕、読経しています。 私は、日常生活の中で、何も無いのに、何時、何処でも、『フクちゃん、フクちゃん』と声を出して呼んでいます。 南無阿弥陀仏の念仏を唱える様に‥…。 心が落ち着きます、心の支え、お守のりさんに成っています。 、 今は、幸いに病気もせず、家族や、人様に余り迷惑を掛けることもなく、フクちやんの沢山な写真に囲まれて、無事に平穏な日々を過ごしています。 2月28日は、フクちゃんの三回忌です。 もう直ぐ春です。フクちゃんと一緒に、フクちゃんの庭で、今年も、春を迎えるのを、楽しみにしています。 ![]() |
死について
2021 / 12 / 19 ( Sun ) 死について
フクちゃんが、私の傍から居なくなって、死に対する気持ちが変わりました。 以前は、自分の命がなくなり、日常生活をしていた私の肉体、存在していた私が、 この世がら消えて無くなると考えると、言葉では表現できない、恐ろしい様な、 気味の悪い気持ちになりました。なるべく死については考えるのは避ける様にしていました。 長い年月を、一緒に過ごしたフクちゃんは、この世を去って、私は一人暮らしになりました。 私は、考えていた以上に長生きしています。 フクちゃんが居ない、今は、何時お迎えが来ても悔いは 無く平常心で心安らかに、死を受け入れられる心境です。 今の私は、病で苦しまず、寝込んで、皆さんに迷惑を掛けない様に最後を迎えられる事を願っています。 |
mas o menos
2021 / 09 / 11 ( Sat ) Mas o menos
スペイン語で、、マス を メノス 直接の意味は。多いと少ないです。 お元気ですか? と聞かれた時に、マス ヲ メノス、(まあ、まあ)と使います。 仕事の結果を、評価する時も。Mas o menos と、私はよく使いました。 永い時間、記憶と印象に残っている、スペイン語です。 私の人生95年も、振り返って見ますと、mas o mens だったと思います。 私は、経済的には、裕福とは言えない家の長男に生まれ、経済的には恵まれないで、自由にお金が使える、周囲の友達を羨ましく思った青春時代を送りました。 恵まれた、生活環境では有りませんでした。 所帯を持ち子供も生まれ、人生いろいろ、95年を生きてきました。 今は、一人暮らしですが、皆さんにいろいろお世話に為りながら、不自由無く日常生活を過ごしています。恵まれた生活だと思います。 Mas o menos の、人生でした。 良しとしなければと思っています。 フフクちゃんと縁が有り一緒になれて、neosi を mas に、良くして貰いました。 クちゃんに感謝して日々を過ごして居ます。 |
6月20日
2021 / 06 / 19 ( Sat ) 6月20日
6月20日に、2回目のコロナワクチンの接種をします。 6月20日は、父の日です。そして私の、95歳の誕生日です。 又、甥の結婚記念日です。 偶然の巡り合わせか、天の配剤、なのか、知る由もありませんが、お祝い事や、行事が重なりました。 今までにも、間一髪で、難を逃れて助かった事も有って、、運命のような、人には理解できない、何かの力を感じる事が有りました。 今まで、生きて来た私の人生で、最大とも言える、幸運は、ふくちゃんと出会て、一緒になり、共に人生を過ごした事です。 遠い信州の地で、生まれ育った、フクちゃんと、伊勢の私が、結ばれる事の出来た縁を、幸運を感謝しています。 私は、高島暦の、1年の、また毎月の運勢を見て、毎日の生活を、無事、息災に、過ごせるように心掛けています。 毎日かさず、朝夕、神仏に手を合わせ、皆さんに迷惑を掛けないように、健康で過ごすように願っています。 これからも、健康、元気で生きたいと願ています。 |
私の1日
2021 / 04 / 11 ( Sun ) 私の一日
1人暮らしも2年になり、生活も、ほぼ定まつてきました。 朝は6時前後に起床し、18時半頃床に就きます。 主な暮らしの内容は。 朝、夕、二度の屈伸体操 一日、4回から5回の散歩(団地中で、7000歩程度) 神様、仏様に対し、礼拝と読経 合計、1時間程度の、読書とPCの学習 を毎日実行するように心掛けています。 日々の暮らしでは、独り暮らし、車を持たない、移動手段が無い、等の不便は、ありますが、穏やかで平和な毎日を不満なく暮らしています。 だけど、フクちゃんと、一緒の時は、考えもしなかったのですが、 ふと今の自分の生活を考えますと、私は、何の目的で生きているのか、生きる目標は有るのかと考える時が有ります。 私は、皆さんから、「お元気ですね」と、言葉を掛けて頂くことがあります。 病気せず、苦労する事も無く、穏やかな日々を過ごしていいます、有難い事だと感謝したいと思います。 高齢に成って、体力が無くなっているのを実感して居ますが,これからも皆さんに、迷惑を掛けない様に、健康には十分に注意して、日々を、過ごすように努力したいと思います。 、 h |
清明
2021 / 04 / 08 ( Thu ) |
フクちゃんの花
2021 / 04 / 02 ( Fri ) フクちゃんの花
フクちゃんの造った庭の花が、今年も綺麗に咲きました。 ![]() ![]() ![]() 近所の、Bさんから、LINE で 、コメントを頂きました。 「いつも綺麗な花を見せてもらっています、有難う、お花に負けず、いつまでも元気に過ごしましょうね」 早速、コメントを、LINE で返しました。 「メッセジ有難う御座いました。 フクちゃんの手造りの庭の花です、見て頂いて喜んでいると思います。 これからもよろしくお願いいたします。」 温かい一日でした。 d |